Yankees
 
 

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 ニューヨーク・ヤンキース(英語: New York Yankees、略称:NYY)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)アメリカンリーグ東地区所属のプロ野球チーム。本拠地はニューヨーク州ニューヨーク・ブロンクスにあるヤンキー・スタジアム。[#a02c5d19]


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Yankees History

NY Yankeesはどのように設立されたか。

1900年(球団発足)

 1900年1月に、それまでマイナーリーグであったウエスタンリーグを改組してアメリカンリーグと改称され、8球団でスタートした。これは、それまで12球団であったナショナル・リーグがこの年に8球団に再編成されたのに伴い、アメリカン・リーグ会長のバン・ジョンソンを中心として同リーグを新たに球団を増やして8球団制にしたものであった。この時にまだマイナー・リーグとしてナショナル・リーグの傘下に入ることであったので、フランチャイズにシカゴにも進出することもナショナル・リーグの承諾を得た。1900年のシーズン終了後にニューヨークで開かれたナショナル・リーグの会議で、ジョンソン会長は新たにワシントンとボルチモアにもフランチャイズを設けることの許可を求めた。バン・ジョンソンは始めから、アメリカン・リーグをナショナル・リーグに対抗するメジャーリーグにする意図であった。そのためには東部の大都市にもフランチャイズを置くことがどうしても必要であった。ナショナル・リーグは当然のごとく拒否したため、1901年の年が明けてからアメリカン・リーグをメジャーリーグとする旨の宣言がなされた。この時にアメリカン・リーグには、前年の8チームの内、カンザス・シティ、ミネアポリス、インディアナポリス、バファローを除名して、新たに東部のワシントン、ボルチモア、フィラデルフィア、ボストンを加えてこの年に8チームでスタートした。この時にジョンソン会長はニューヨークにもフランチャイズを置くことを企図したが、ナショナル・リーグの猛反発と、ナショナルリーグのニューヨーク・ジャイアンツのオーナーがタマニー・ホール(注:民主党の派閥組織)を動かしながら、政治的妨害に出る行動をとったため、代替案として新加入する地区の一つは前年にナショナル・リーグのチームを失っていたメリーランド州ボルチモアとした。この時に創設されたボルチモア・オリオールズ(現在のオリオールズとは無関係)が後のニューヨーク・ヤンキースの起源となった。

黎明期(ハイランダーズ〜ヤンキース)

 ニューヨークにおける最初の本拠地は、マンハッタン島の最高地点に程近い165番通りと ブロードウェイの角に置かれた。これにちなんで、チームはニューヨーク・ハイランダーズに改称し、球場名もヒルトップ・パーク(現在この球場の跡地にはコロンビア・プレスビタリアン病院が建っており、ヤンキースの選手が怪我をした際に訪れるケースが多い。2006年に松井秀喜選手がヤンキー・スタジアムでの試合中に左手首を骨折した際もこの病院に運ばれた)と呼称された。

ハイランダーズは、クラーク・グリフィス(後のワシントン・セネタースのオーナー)が投手兼監督で、打線に安打製造機と言われたウイリー・キーラー、投手にパイレーツから引き抜いたジャック・チェスブロがいて、移転当初の1903年はリーグ4位に、そして1904年にはリーグ2位にとなり、チェスプロはこの年に年間41勝をあげた。この年最後までボストン・アメリカンズとデッドヒートを繰り広げ、最終戦まで持ち込まれたが接戦の末、最後にチェスプロ投手の痛恨のワイルドピッチでボストンがリーグ優勝を果たした。ハイランダーズにとっての最大のチャンスであったが、この年の終盤にジャイアンツのオーナーは、もしハイランダーズみたいな “マイナー級” のチームがワールドシリーズに進出してきたら、試合を拒否する、と明言していた。結果はボストン・アメリカンズが相手になったが、しかし、それでもジャイアンツは試合を拒否し、その年のワールドシリーズ開催は中止された(ワールドシリーズが行われなかったのはこの年とストライキによる影響の1994年の2回のみ)。しかし、この時のメディアによる辛辣な批判を浴びたジャイアンツのオーナーはワールドシリーズ制度の枠組み作りに精力的に動く事になる。なお、この試合以後100年間に渡ってボストン・レッドソックスがリーグ優勝を決める試合でヤンキースに勝つ事はなかった。

その後は1906年と1910年に2位に2回なったものの、1903年から1919年までの17年間で勝率が5割以上は5回だけで、最下位が2回であった。球団運営上の問題として、2人のオーナーの資質に問題があり、ハル・チェイス一塁手らによる八百長の噂などがチーム状態を悪くしていった。チェスプロやキーラーらの退団後、めぼしい選手が集まらず、また1903年から1914年までの12年間に監督が9人も入れ替わる定見の無さで、チームは弱体化していた。

1911年にジャイアンツのホーム球場ポロ・グラウンズが火事で再建している際、ハイランダーズがヒルトップ・パークを貸し出した事により両者の間で和解ムードが生まれ始める。また、ハイランダーズはその縁もありホーム球場を1913年に同じポロ・グラウンズに移転した。

また1900年代初頭から次第にボストンの “アメリカンズ” に対して “ヤンキース” という愛称が広まりつつあった。新聞王ハーストのニューヨーク・イブニング・ジャーナルでも1904年4月14日の見出しに “ヤンキースがボストンを破る” とするなど、使用頻度も高まっており次第に定着していった。結局1913年にチームがホーム球場をポロ・グラウンズに移転し、“ハイランダーズ (Highlanders)” としての正当性がなくなった事から、“ニューヨーク・ヤンキース”と正式に名称変更を行った。

1910年代半ばに、オーナーであるファレルとデブリーは、不仲となっており、加えてフェデラル・リーグの創設で選手の年俸が高騰し、資金不足になったため、1915年1月に、ファレルとデブリーはジェイコブ・ルパートとティリンガースト・ローメデュー・ヒューストン(英語版)にヤンキースを売却した。ルパートはルパート醸造所の財産の相続人で、タマリーホールともかねてから関係があり、8年間連邦議員を務めて、豊富な資金力があった。ルパートは後に「45万ドルで、際立った才能を持つ選手も無く、さして評価もされていない、おまけに自前の球場すらない孤児の球団を買ったよ」と述懐している。しかし、カネと意欲を持つオーナーと巡り合った事で、ここからヤンキースは孤児からスーパーヒーローが生まれ、自前の球場を持ち、ルパートが予想だにしていなかった快進撃を始める事になる。

第一黄金時代(ミラーハギンス監督)

 買収後の数年間に渡って、新オーナーは選手の報酬総額を高くしていった。そして皮肉な事に、後にチームの成功に貢献することとなる新規獲得選手はボストン・レッドソックス出身であった。当時レッドソックスのオーナーは劇場興行主のハリー・フレイジーであったが、彼はチームをローンで購入したため支払いに窮しており、更にはブロードウェイのショーの制作まで行っていたため手っ取り早い収入を得る事が重要だった。1919年から1922年まで、ヤンキースはレッドソックスから、投手ではウェイト・ホイト、下手投げのカール・メイズ、ハーブ・ペノック、捕手のウォリー・シャン、遊撃手のエベレット・スコット、三塁手のジョー・ドュガンを獲得した。

そして最大の獲得選手は1920年1月に入団し、投手から野手に転じたベーブ・ルースである。野球界で最高額の年俸を貰っていたのにも関わらず更なる増額を要求していた彼に払えるだけのお金をレッドソックス側は用意しておらず、ルースが前年に当時の年間最多本塁打記録(29本)を更新していたのにもかかわらずヤンキースへと放出した。彼の獲得費用は、12万5千ドルの金銭とレッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークが抵当に付された借金の30万ドルであった。この時レッドソックス側はヤンキースに有名選手を放出する事により、良きライバルとして互いの興行収入を上げようとの狙いもあった。しかし、ルースを放出して以後84年間に及びレッドソックスがワールドシリーズで勝つ事は無かった(バンビーノの呪い参照)。

この時期におけるもう一つの重要な新加入者は、ミラー・ハギンス監督と、GMのエド・バローである。ハギンス監督は、1919年に、ヒューストンがヨーロッパに出征中にルパートによって雇われた(これをきっかけに、両オーナーの間の溝が深まり、結局1923年にルパートはヒューストンの持分を買い取り、オーナー職から追い出す事となる)。バローは、1920年のシーズン終了後GMに就任した。彼は1918年からレッドソックスの監督をしていた人物である。バローは、GM兼球団代表をその後25年間務め、その期間のチームの成功に貢献した。とりわけ特筆されるのは、ジョージ・ワイスとともにヤンキースのファーム制度の整備に大きく寄与したことである。

ルースによって放たれたホームランにより野球人気が大衆の間にも浸透し、おまけにヤンキースは地主のジャイアンツのファンをも引き付け始めた。1921年に、ヤンキースは1922年のシーズン終了後までには当時間借りしていたポロ・グラウンズからの移転を半ば強制的に勧められた。ジャイアンツのマグロー監督は「彼らはどっか遠い所に行ってしまった方がいい、クイーンズ区とか」と述べたが、皮肉にもヤンキースの新球場はポロ・グラウンズからハーレム川を挟んで反対側の土地に建設された。1923年に、ブロンクス161番とリバー通りの角にヤンキー・スタジアムが完成。地下鉄の駅がライト後方にあったのが直接の決め手だったと言われている。当時としては最先端のセメント工法で建てられた史上初の3階建て球場で、収容人員は驚異の5万8千人であった。まさに、「ルースが建てた家」と呼ばれるのにふさわしい威容である。スタジアムでのこけら落としとなる第1戦でルースは見事に本塁打を打ち、貫禄を見せ付けた。なお、このシーズンにルースが記録した打率.393は今でもヤンキースのチーム記録である。同じニューヨークの球団ということで、ジャイアンツとヤンキースのライバル関係は熾烈だった。興味深いことのひとつが対照的なプレースタイルである。当時のジャイアンツの監督は「リトルナポレオン」の綽名を持ったジョン・マグローであり、ヒットエンドラン、盗塁を多用し、走塁の徹底、守備位置の精微な研究といった、緻密な作戦や足を重視したいわゆるスモールボールがジャイアンツの特徴だった。対してヤンキースは、ベーブ・ルースが質量ともに誰にも真似できないホームランを連発し、ビッグボールが一つのセールスポイントとなった。1920年のポロ・グラウンドの年間観客動員を見ると、ジャイアンツは約95万人、ヤンキースは約135万人と当時のファンはビッグボールに興味を示し始めたともいえる。

1921年から1928年まで、ヤンキースは第1期黄金時代を迎え、アメリカンリーグで6回優勝し、ワールドシリーズでは3回優勝した。1921年から1923年を通じて、ワールドシリーズでジャイアンツと相まみえ、1度目、2度目は敗れたが、1923年には雪辱を果たした。この時に相手側にいたケーシー・ステンゲル監督は後にヤンキース監督に就任し、数々の優勝をもたらす事になる。 1927年のチームは、余りにも豪華メンバーで、「殺人打線」(Murderer's Row)として知られ、しばしば野球史上最強のチームに挙げられる(このヤンキースの歴代最強チームについては他に1939年、1961年、1998年についても打線が強力なため、同様に史上最強と呼ばれることもある)。当時のア・リーグ記録である110勝44敗という好成績を残し、ピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズでも4連勝で危なげなく優勝。1927年のルースのシーズン本塁打60本は、アメリカンリーグの他の全球団の合計本数を上回り、その後34年間に渡って最高記録であった。また、ルー・ゲーリッグ一塁手も大ブレークを遂げ、打率.373に47本塁打を打った。主にルースが3番、ゲーリッグが4番を打っていたが、その後に控える打者も中々の強打者であった。ボブ・ミューゼル外野手は打率.337に103打点、トニー・ラゼリも打率.309、18本塁打(リーグ3位)102打点を記録。この打線の特徴は単なる重量打線だっただけでなく、スピードも大きな武器で、ミューゼルは24盗塁、ラゼリも22盗塁を挙げる。一番打者のアール・コームスは打率.356を記録し、231安打は1986年にドン・マッティングリーが破るまでチーム記録であった。1927年のヤンキースチーム打率は.307だった。

1928年には再びア・リーグ優勝チームとして返り咲き、セントルイス・カージナルス相手のワールドシリーズで4連勝し、制覇。ルースの16打席10安打の打率.625はワールドシリーズ記録であり、そのうちの3本は本塁打であった。ゲーリッグも負けじと11打数6安打に4本塁打を記録。その後もフィラデルフィア・アスレチックスと優勝争いを繰り広げ、1932年にワールドシリーズに出場。この時の相手のシカゴ・カブスも4連勝で退け、ワールドシリーズでの連勝記録を12に伸ばした。これは2000年ワールドシリーズでヤンキースが再び記録更新するまでのMLB記録であった。この1932年のワールドシリーズで、ルースがリグレー・フィールドで有名な予告ホームランを打っている。

第二黄金時代(ジョーマッカーシー監督)

 1929年のシーズン途中にハギンス監督が急死した後にボブ・ショーキーを監督に就任させたが、1930年に3位に終わってわずか1年で解任し、ルパートとバローは29年にシカゴ・カブスをリーグ優勝させたジョー・マッカーシーを監督に招聘し、1932年にはペナントを奪回し、ワールドシリーズも制覇した。そして2年続けて優勝を逃した後に1935年には衰えが目立ってきたベーブ・ルースをルパートとバローは解雇しボストン・ブレーブスにトレードして、ゲーリッグを中心に打線の世代交代を進め、マッカーシー監督の下にヤンキースは新たな進化を遂げた。サンフランシスコ・ベイエリア出身の若い中堅手ジョー・ディマジオの登場はチームにとってのポスト・ルースとも言える存在であった。ディマジオはルーキー年の1936年に打率.323、29本塁打125打点を記録し、強烈なインパクトを残した形でのデビューだった。

そしてゲーリッグ、レッド・ロルフらに代表されるような強打者と並びにレッド・ラフィングやレフティ・ゴメスといった強力な投手陣とそれを支える女房役ビル・ディッキーらがいて、新進のジョー・ディマジオの活躍でヤンキースは1936年から1939年にかけてワールドシリーズ4連覇を達成した。最後の1939年の優勝はシーズン途中で筋萎縮性側索硬化症と診断され引退を余儀なくされたたゲーリッグをほぼ欠いた状態で得たものだった。

この時のヤンキースの最大のライバルはデトロイト・タイガースであった。タイガースはヤンキースの4連覇前の2年間優勝してヤンキースのワールドシリーズ出場を阻止しており、また、5連覇を阻んだのも彼らであった。しかし、ヤンキースはワールドシリーズに出てさえしまえば強かった。1936年のワールドシリーズでのジャイアンツとの試合では18-4で下し、同一チームによる最多得点記録(2005年まで)を成し遂げた。そのシリーズでは4勝2敗で勝ち取り、翌年も4勝1敗。さらに、1938年のシカゴ・カブス、1939年のシンシナティ・レッズとの対戦ではいずれも4連勝でワールドシリーズを勝ち抜けた。メジャーでの選手経験がないマッカーシー監督は1946年途中までの16年間ヤンキースの監督を務め、リーグ優勝8回、ワールドシリーズ優勝7回の成績を残した。

第三黄金時代 (ケーシーステンゲル監督)

 ヤンキースは、1947年にマッカーシーの後任にバッキー・ハリスを選び、戦後初のリーグ優勝とワールドシリーズを制覇したが、翌年3位に転落するとわずか2年でハリスを解任して、それまでドジャースとブレーブスで9年間監督を務め一度も勝ち越したシーズンが無いケーシー・ステンゲルを後任に据えた。その最初のシーズンの1949年は主砲ディマジオの右足故障で開幕から長期欠場で大幅戦力ダウンを余儀なくされたが、しかしこのケーシー・ステンゲル監督の下で、マッカーシー時代のチームを凌駕する成績を収めることになった。ステンゲル監督は、就任直後の5年間1949年から1953年にかけて強力打線で空前絶後のワールドシリーズ5連覇を達成し、以降1960年までの通算12年間でリーグ優勝10回、ワールドシリーズ優勝7回の成績であった。主力選手は、捕手のヨギ・ベラ、外野手のミッキー・マントル、投手のホワイティ・フォードであったが、マッカーシー時代の有名選手を取り揃えたチームとは異なって、1950年代のヤンキースの成功はステンゲル監督の十人並みの選手の能力を最大限に引き出す巧みな選手起用法に負うところが大きかった。

第四黄金時代(ラルフハルク監督)

 そのステンゲル監督も、1960年のパイレーツとのワールドシリーズで最終戦の最終回にビル・マゼロスキーに本塁打を打たれてサヨナラ負けを喫すると、この場面でエースのホワイティ・フォードを起用しなかったことに批判が集中し、その責任を取り辞任した。この1960年で特筆すべきことはアスレチックスからトレードで獲得したロジャー・マリス外野手である。この年に本塁打39本でリーグMVPに輝いたマリスは、ヤンキースの至宝ともいわれたマントルとともにMM砲と呼ばれ、翌年1961年にはマリスは本塁打61本でベーブ・ルースのシーズン記録を破り、マントルも54本打って、シーズン終盤まで熾烈なホームラン争いをして、かつこの年の投手陣もホワイティ・フォードが25勝を挙げてサイ・ヤング賞を受賞し、ワールドシリーズでも前年からの無失点記録を32イニングに伸ばしてシリーズ記録を達成するなど、リーグ優勝とワールドシリーズ優勝を達成し圧倒的なヤンキースの強さを示した。しかしこのMM砲に代表される黄金時代は長くは続かなかった。翌1962年もリーグ優勝とワールドシリーズ優勝を果たしたが、マリスもマントルも1961年の時の成績を残すことは無かった。1963年にはリーグ優勝したが、ワールドシリーズではロサンゼルス・ドジャーズに4連敗で完敗し、ハルク監督は解任されて、翌1964年に捕手のヨギ・ベラを監督に就任させた。ベラ監督は1964年もリーグ優勝したが、ワールドシリーズではセントルイス・カージナルスと3勝3敗の第7戦に持ち込んだが敗れ、ベラ監督はわずか1年で解任されて、後任にはこの時ワールドシリーズで優勝したライバルのカージナルス監督ジョニー・キーンが就任した。結局この時代はリーグでは4連覇したが、ワールドシリーズでは2回優勝に終わった。

トッピングとウェッブは20年間に渡り球団のオーナーを務めたが、ワールドシリーズ出場を逸したのはたった5度であり、同シリーズでは10勝5敗の成績を残している。

冬の時代

 これ以後、ヤンキースは低迷期に入った。1964年シーズン終了後、CBSが、ダン・トッピングとデル・ウェッブから1120万ドルでヤンキースを買収した。しかし、CBSがオーナーとなった1965年以降、ヤンキースは冬の時代を迎えた。ミッキー・マントルもロジャー・マリスも力が落ち、ジャッキー・ロビンソン以降各球団が黒人に門戸を開いていたが、この間もヤンキースは黒人の採用をためらっていたことも災いして1966年にはリーグ最下位にまで転落するなどヤンキースは大きく弱体化し、下位に甘んじることになってしまった。マリスは1967年にカージナルスに移籍し、1969年春のキャンプ地でミッキー・マントルは満身創痍で現役引退を表明し、ヤンキースの凋落は1965年から1975年までの11年間にBクラスが8回になるほどに続いた。

第五黄金時代(ビリーマーチン監督)

 1970年代に入るとジョージ・スタインブレナーらが1973年1月3日にCBSから1000万ドルで球団を買収。老朽化したヤンキー・スタジアムの全面改装に乗り出したのと同時にチームの大がかりな再建に着手した。内野手でグレイグ・ネトルズ、クリス・チャンプリス、外野手でルー・ピネラ、ミッキー・リバースを他球団から補強し、1975年にはシーズン途中でかつてのヤンキース5連覇当時の2塁手だったビリー・マーチンを新監督に迎え、さらにアスレチックスからキャットフィッシュ・ハンター投手を獲得して、翌1976年に新装なったヤンキー・スタジアムでヤンキース生え抜きのサーマン・マンソン捕手の活躍もあって12年ぶりにリーグ優勝し、ワールドシリーズではスパーキー・アンダーソン監督のシンシナチ・レッズに敗れたが、この年はヤンキース復活の年となった。

そしてシーズンオフにフリー・エージェントでボルチモア・オリオールズからスター選手のレジー・ジャクソンを獲得した。そしてジャクソンは1977年に打線の主軸として活躍して再びリーグ優勝し、ワールドシリーズでは宿敵ロサンゼルス・ドジャーズと対戦して第6戦で3打席連続本塁打(全て初球)を含む本塁打5本の活躍で1962年以来15年ぶりにワールドチャンピオンとなった。翌年1978年も同じ顔合わせでのワールドシリーズとなったが、4勝2敗で下し、シリーズ2連覇を果たした。

オーナーのスタインブレナーとマーチン監督の関係は愛憎入り混じって複雑なものがあり、その後解雇と雇用を何度も繰り返した。しかし複数回の解任→就任も、チーム成績の浮沈に関わらないところが大きい。またマーチンとジャクソンが反目しあい、喧嘩も日常茶飯事という状況で地元マスコミはこれを「ブロンクス・ズー(まるでベンチは動物園のようだ)」と報じて、マーチンとスタインブレナーの確執と同じに、当時のチーム状況を特徴付けるものであった。

再び低迷

 1970年代後半には黄金時代の再来を予感させたが、1980年代に入ると長い低迷期を迎えてしまい、最下位争いをするチームに成り下がった。デーブ・ウィンフィールドなどフリーエージェント権を行使した大物選手に大金を投じるものの、結果は芳しくなく、1981年を最後にワールドシリーズ出場からも遠ざかった。1990年には、ヤンキースの投手アンディ・ホーキンスが、ホワイトソックス戦で被安打ゼロで敗戦投手となる珍事も起きた。ホーキンスはこの試合をずっと無安打で投げてきたが、8回に3人を歩かせた後、次打者のセンターへの当たりを中堅手がエラー。塁上の3人と打者走者が生還し0-4で敗戦するという内容であった。

1990年、オーナーのスタインブレナーがアメリカン・リーグより、オーナー停職の処分を受けたことから改善の兆しが現れ始めた。上層部からの妨害なしに首尾一貫した監督采配ができるようになるというのも一因であったが、この頃に就任したGMのジーン・マイケル(後にボブ・ワトソン)とバック・ショーウォルター監督の下、ヤンキースのチーム編成方針を、才能を買うことから、ファームで才能ある若手を育てるように変更した。1994年にはその効果が現れ、選手のストライキで期間短縮されたシーズンではあったが、ヤンキースはアメリカンリーグ最高の成績を収めた。翌1995年には、ワイルドカードにより1981年以来となるプレーオフを勝ち上がった。シアトル・マリナーズとの記憶に残る対戦に敗れたが、選手達に自信をつけさせた。

第六黄金時代(ジョートーリ監督)

 ショーウォルター監督は1995年のシーズン後、オーナーやコーチ陣との確執から退団し、ジョー・トーリ監督に交代した。スタインブレナーがオーナーになってから21番目(14人目)の新監督であった。

トーリはそれまでニューヨーク・メッツ、アトランタ・ブレーブスなど3つの球団で計15年間監督を務めながら、一度もプレーオフにすら出場したことがないということもあり、当初は時代遅れの人選であるとの嘲笑を受けた(あるタブロイド紙には「無知なジョー」との見出しが踊ったこともある)。しかし、トーリ監督の落ち着き払った手腕により1996年についにワールドシリーズに進出し、アトランタ・ブレーブスを第6戦で下して18年ぶりにヤンキースはワールドチャンピオンに返り咲いた。ボブ・ワトソンGMは、1997年にワールドシリーズの連続出場を逃すと退任し、ブライアン・キャッシュマンがGMに就任した。しかしながら、トーリ監督とキャッシュマンGM体制は、基本的には、前任者のマイケル、ワトソン及びショウォルターらの築いてきた基礎によって勝利を獲得したものであり、中でも、デレク・ジーター、アンディ・ペティット、ホルヘ・ポサダ、マリアーノ・リベラやバーニー・ウイリアムスら、ヤンキース傘下のファームで育った生え抜き選手の成長に負うところが大きかった。また、加えてヤンキースは財政面での有利さを生かして、1990年代にも何度も大規模な選手補強を敢行した。ただ、大物選手もいることはいるが、身の丈に合った選手の獲得が主なもので、ポール・オニール、デビッド・コーン、ティノ・マルティネス、デビッド・ウェルズ、大物選手ではウェイド・ボッグスやロジャー・クレメンスらを獲得している。

1998年から2000年の間、1970年代初頭のオークランド・アスレチックス以来のワールドシリーズ3連覇を達成した。1998年と1999年にはそれぞれサンディエゴ・パドレスとブレーブスを下し、2000年には同じ市にあるニューヨーク・メッツと1956年以来となる「サブウェイ・シリーズ」で対戦し、4勝1敗でこれを下した。

21世紀へ

 2001年9月11日の世界貿易センタービルのテロ事件の傷跡癒えない2001年10月、東地区でヤンキースはアスレチックスを3勝2敗で下し、リーグ優勝決定戦ではマリナーズを4勝1敗で破ったが、アリゾナ・ダイヤモンドバックスとのワールドシリーズでは第7戦でサヨナラ負けを喫し、ワールドチャンピオン4連覇を逃した。

2001年のワールドシリーズ敗退により、1990年代ヤンキースの栄華は終わり、主軸選手の引退やトレードが相次いだ。2002年のプレーオフにはアナハイム・エンゼルスとの対戦でヤンキースは早々に敗退したことで、球団の運営方針は急速に変わり、フリーエージェントや大型トレードが行われ始める。2003年は、松井秀喜がアジア人野手としては球団初のメジャー契約を交わし入団。ヤンキースは宿敵ボストン・レッドソックスをリーグ優勝決定戦の第7戦で辛うじて下した。乱闘スレスレの第3戦、そして退場劇が注目を集め、第7戦の11回裏にアーロン・ブーンのサヨナラ本塁打により幕を閉じた。しかし、ワールドシリーズではフロリダ・マーリンズに2勝4敗で敗れたためか大型補強の傾向は続き、ゲイリー・シェフィールド、ケニー・ロフトン外野手、ケビン・ブラウン、ハビアー・バスケス両投手らを獲得、2004年2月にはアルフォンソ・ソリアーノらとのトレードでアレックス・ロドリゲスを獲得したが、レギュラーシーズンでは地区優勝するもリーグ優勝決定戦 (ALCS) で宿敵レッドソックスに3勝0敗からまさかの4連敗を喫し、ワールドシリーズ出場はならなかった。2005年も地区シリーズでロサンゼルス・エンゼルス、2006年にはデトロイト・タイガースに敗れてしまった。

他のどのチームよりもはるかに年俸が高く、そのパワーをもってヤンキースは13年連続でポストシーズン進出を果たしたものの、2001年から8年連続で世界一から遠ざかっていた。このため、90年代に成功した一因である、ファームでの若手育成も必要だという意見も出ている。そして2007年も、5月29日時点でのレッドソックスとの最大14.5ゲーム差から6月の9連勝などもあって猛追、最終的には連続地区優勝は9年で止まり、ワイルドカードでのプレーオフ出場となったが、クリーブランド・インディアンスに敗れてしまい、3年連続の地区シリーズ敗退となった。

2008年シーズンからは、2007年シーズン限りで退団したジョー・トーリに代わり、ジョー・ジラルディが新監督に就任し、チームの指揮を執ることになった。4年連続プレーオフ敗退を受けて、オフにツインズのヨハン・サンタナ投手をトレードで獲得する可能性があったが、若手の放出を避けフロントはこれを見送るなどこれまでの補強路線を改め、選手の育成に力を入れた。しかし王建民やホルヘ・ポサダら主力選手の長期離脱やジャバ・チェンバレン、フィル・ヒューズ、イアン・ケネディら若手投手の不調・故障などもありチームは低迷、1995年以来続いていたポストシーズン進出がアトランタ・ブレーブスの14年連続に次ぐ史上2位の13年連続でストップした。

新球場移転、再び王者へ

 迎えた2009年、2代目となる新ヤンキー・スタジアムが開場。前年にプレーオフ進出を逃した反省から、CC・サバシア、A.J.バーネット、マーク・テシェイラら各球団の一線級の選手を獲得するなど、総額4億ドル以上もの大補強を行った。また、世界のスポーツチームの平均年俸ランキングにおいて1位(約7.1億円)となった[2]。シーズン序盤こそ勝率5割前後と苦戦が続いていたものの、5月に入る頃には低迷していた各選手の調子が上がり、一気に勝ち星を重ねた。特に新球場が打者有利ということもあり、打撃陣が好調で、20本塁打以上が7人、チームOPSは.839に及んだ。また投手陣も強力な打線の援護を受け、サバシアをはじめとする先発陣が一年を通してローテーションを守った。一塁守備ではMLB屈指のテシェイラの加入、守備範囲の向上したジーターの活躍により守備の安定感が増したのも大きかった。5月以降は91勝49敗という圧倒的な強さをみせ、最終的に103勝59敗と2位のレッドソックスに8ゲーム差をつける大差で地区優勝を果たした。ディビジョンシリーズではミネソタ・ツインズを3連勝で下すと勢いに乗り、リーグチャンピオンシップシリーズでは苦手のエンゼルスも4勝2敗で下した。ワールドシリーズでは前年チャンピオンのフィラデルフィア・フィリーズと対戦。1試合6打点のMLBタイ記録を含むシリーズ3本塁打・8打点を記録した松井秀喜の活躍もあり、4勝2敗でフィリーズを下し、9年ぶり27度目となるワールドチャンピオンに輝いた。

2011年8月25日、アスレチックス戦でMLB史上初の1球団による1試合3満塁本塁打を記録。両チーム合わせて3満塁本塁打は1986年・1987年に1度ずつ記録している。内訳は、5回裏にロビンソン・カノ、6回裏にラッセル・マーティン、8回裏にカーティス・グランダーソン。試合は22-9でヤンキースが勝利した[3][4]。地区優勝を果たし、ディビジョンシリーズに出場するも、中地区のデトロイト・タイガースに対し2勝3敗でリーグチャンピオンシップシリーズ出場を逃した。オフの、2012年1月13日、FAの黒田博樹を1年契約で獲得。同日、シアトル・マリナーズとのトレードで、ヘスス・モンテロとヘクター・ノエシを放出し、2011年の新人王候補にもなった、マイケル・ピネダを獲得した。

2012年7月23日、D・J・ミッチェル投手とダニー・ファーカー投手と移籍金のトレードで、イチローを獲得した[5]。シーズンでは2009年のチーム記録を更新する245本塁打を放つなどし、概ね首位を維持していたが終盤に失速し、最終的に10月3日のシーズン最終戦のレッドソックス戦で地区優勝を果たした[6]。ディビジョンシリーズではワイルドカードのボルチモア・オリオールズと対戦。3勝2敗でリーグチャンピオンシップシリーズ出場を果たしたが、デトロイト・タイガースに0勝4敗と全敗しワールドシリーズ出場を逃した。シーズンオフの12月14日にシカゴ・ホワイトソックスのケビン・ユーキリス、1月31日にクリーブランド・インディアンスのトラビス・ハフナーを獲得した。

2013年3月26日、エクシカルド・ケヨンズ、クレイマー・スニードとのトレードでバーノン・ウェルズを獲得。5月21日に、ヤンキースがサッカーのプレミアリーグのマンチェスター・シティーと共同出資して新チームを発足させ、2015年からMLSに参入する事が発表された。チーム名はニューヨークシティFCで、ニューヨークに本拠地を置く予定である。[7]シーズンではデレク・ジーターのほか、アレックス・ロドリゲス、マーク・テシェイラ、カーティス・グランダーソン、新戦力のケビン・ユーキリスら主力野手が怪我で離脱。チームは序盤好調だったが、5月下旬に首位を明け渡すと、夏以降低迷した。最後までワイルドカード進出を争ったが叶わず、2008年以来5年ぶりにプレーオフ進出を逃し、地区3位タイ(ボルチモア・オリオールズと同率)でシーズンを終えた。打者の離脱が響き、チームOPSはリーグ13位(.683)、本塁打は14位(144本)と打線が近年稀に見る低調だった。この年限りでマリアノ・リベラとアンディ・ペティットが引退。リベラの背番号「42」は永久欠番となった。

2014年1月22日、田中将大と7年総額1億5500万ドルの契約で合意した。5月8日、ジョー・トーリの背番号「6」を永久欠番に指定することを発表した。7月24日、ア・リーグ史上初となる通算10000勝を達成した。しかしチームは低迷、1993年以来21年ぶりに2年連続でプレーオフ進出を逃した。そして、この年限りでデレク・ジーターが引退した。

2015年2月16日、アンディ・ペティットの背番号「46」、ホルヘ・ポサダの背番号「20」、バーニー・ウィリアムスの背番号「51」を永久欠番に指定することを発表した[8]。シーズンオフの11月11日にアーロン・ヒックスをミネソタ・ツインズとのトレードで、12月17日にスターリン・カストロを7年ぶりにポストシーズンに進出し、リーグ優勝決定シリーズまで勝ち進んだシカゴ・カブスとのトレードで、12月28日にシンシナティ・レッズとのトレードで、アロルディス・チャップマンを獲得した[9]ものの、FAでの獲得ではない為2015年冬の移籍市場でメジャー30球団では唯一そして球団史上初めてFA選手を誰一人獲得しなかった。

2016年シーズンが始まるとトレード期限となる8月1日時点ではまだ首位と6.5ゲームと少なくともワイルドカード争いに入った頃に、4選手を一気に放出する事になった。まず7月25日にレッズからトレードした筈のチャップマンがわずか7ヶ月でナショナルリーグ中部地区首位を走るカブスに放出したのに続き、7月31日に去年は36セーブと抑えを務め、チャップマンの前に当たるセットアップマンを務めたアンドリュー・ミラーがアメリカンリーグ中部地区首位を走るクリーブランド・インディアンズに移籍と勝利の方程式を担うベタンセスからバトンを引き継ぐはずの後ろ2人を失う。そして8月12日に現役通算696ホームランを記録したアレックス・ロドリゲスがシーズン途中で突然の引退。同月1日には先発ピッチャーで当時チーム2位タイの7勝を挙げていたイバン・ノバがピッツバーグ・パイレーツに、そして田中と同じタイミングで入団しここまで打撃陣を引っ張っていたカルロス・ベルトランがアメリカンリーグ西部地区首位を走るテキサス・レンジャーズに移籍と、1週間で4人の主力を他地区の上位チームに一気に奪われてしまったのが致命傷となり、優勝争いから脱落。ゲイリー・サンチェス、アーロン・ジャッジ、タイラー・オースティンのルーキートリオからなるベイビーボンバーズの台頭、開幕当初は右ひじの不安がありながらもチーム最長の199 2

3 回を投げた田中の頑張りも空しく僅かながらに残ったワイルドカード争いも過去2シーズンの東部地区優勝チーム(一昨年のオリオールズ、昨年のブルージェイズ)の後塵を拝する形で脱落していった。またノバ以外に移籍した選手がそれぞれ地区優勝を果たすという皮肉まで生じた。ベルトランの移籍、ロドリゲス、マーク・テシェイラの現役引退によりチームの平均年齢は一気に若返った。

2016年12月6日、デレク・ジーターの背番号「2」を永久欠番に指定することを発表。12月15日、シカゴ・カブスからFAとなっていたアロルディス・チャップマンの復帰が決定した。

2017年はプレーオフに進出したもののセカンドステージでアストロズに敗退した。


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Last-modified: 2018-12-21 (金) 09:44:07 (592d)